公チャンネル

「道を求めて」

長いこと、公チャンネルに徒然のままつぶやいてきました。
ご覧いただきありがとうございました。
お役に立てなく、時間の無駄をさせたのではないかと自戒しています。
人間の幸せはモノの大小や金額の多寡によるのではなく、幸せを考える人間の大小によると思います。
ありがとうございました。

借金だらけの倒産した病院を再建する過程で、お金を稼ぐ人使う人の人格とはいかなるものか。また、再建する私に理不尽なことや不条理なことが投げかけられた。
筆舌に尽くしがたい体験の中で、私は、人間の値打ちとは何か、人間は何のためにこの世に生を授かったのか、働くとはどういうことか、お金とは何なのか等々、目に観えない問いが湧き水のように湧いてきた。まるで喉が渇き水を求めるように、生き方やあり方を学ぶために、人を探し求め歩いた。
日蓮宗僧正井上日宏先生、陶芸家であり思想家の北川八郎先生、シンクタンクソフィアバンク代表・多摩大学外学院教授・田坂塾塾長の田坂広志先生、仏教学者で僧侶の紀野一義先生、伝記作家の神渡良平先生、教育者で浄土真宗の僧侶である東井義雄先生、日本の教育者である森信三先生、イエローハット創業者の鍵山秀三郎さんに30年以上も師事してきた。
書籍も仏教書や聖書、臨済宗松原泰三老師、漢学者の安岡正篤先生、愛知専門尼僧堂堂長青山俊董尼僧、沢木興道老師や苦海浄土の作家石牟礼道子さん、臨床心理家の河合隼雄先生の書物や講演を聴聞した。
若いときはハウツーに興味を持ったが、30歳を境にハウツーでは小手先のことであり肚に落ちることはなかった。中小企業診断士・社会保険労務士・交流分析士・コーチングなどの資格を返上したのも、その流れからであった。もったいないという声もあったが、私にとり価値は見いだせなかった。

見えない世界である、心や魂のことは自らが行き詰まり、失敗や困難、挫折や喪失を体験する中で、人は何のために命を授かったのか、自分とはなにものか、何のために仕事をするのか、そもそも人間とはいかなる動物かなど、答えのない問に向き合い始めるものである。
自分の存在そのものが揺らぎ、魂が消えていく恐怖感を覚えた。このような待ったなしの事態にならなければ、心のアンテナは立たないのである。
アンテナが立たない以上、天の声もよき人の言葉も文字も届かない。
昔から一人(いちにん)前の人間に成長するには、大病・投獄・戦争のいずれかを体験しなければならないというのは、こういう体験をして心のアンテナが立つと言っているのである。
求められないのに、生き方やあり方、死生観や仕事観、人間観などを語ることは、強制になり反発を招くか、頭の上を通り過ぎるだけである。
そのことに早く気づくべきだった。

「耆(ろう)に学ぶ」という共著のなかで、執行(しぎょう)草(そう)舟(しゅう)さんが、『毒を食らえ』という文章を載せている。
耆とは、老いる、老けるという意味もあるが、徳の高い老人という意味がある。
執行さんは「そもそも年を取るとは、衰えることではなく、魂は成熟し、精神は強くなり、人として美しくなること」。しかし、実際の「老い」は、「美」から「醜」への移行であり、社会的に厄介者扱いである。
なぜそうなってしまったのか。それは「戦後の日本人が『毒』を避ける生き方をしてきたからだ」と執行さんは考える。
「不条理なこと、理不尽なこと、思い通りにならないこと、その苦悩こそが『毒』であり、それが人間を真に人間たらしめるものである」と。
すなわち、「毒を食らえ」とは、不幸なこと、苦しいことを、「受け入れろ」「引き受けろ」「それこそが生命の本質である」というのである。
【宮崎中央新聞=日本講演新聞魂の編集長水谷もりひとさんのコラムから引用】
芸術家の岡本太郎さんのご著書に、「自分の中に毒を持て」がある。
『他人と比較せず、気に入られようとすることなく、いのちを賭けて運命と対決するのだ。そのとき、切実にぶつかるのは己自身だ。己が最大の見方であり、また敵なのである。迷ったら危険な道に賭けるんだ。他人と同じに生きていると自己嫌悪に陥るだけ』という文章に出会ったとき、肚落ちした。
私自身を振り返ってみれば、行政からも医師会からも院内からも、無資格者ということだけで侮蔑とも、理不尽とも、不条理とも、差別的ともいえる取り扱いを受けた。現在進行形であり、過去進行形である。私とは別格の良寛さんも西郷隆盛も同じ体験をしたという。
苦を経験すればするほど、人間の精神は鍛えられる、押し付けられた無理難題に挑むからこそ成長がある。たとえ、逆境を乗り越えられなくても挫折や失敗、喪失という経験から、人間の情味や人間の値打ちを学ばせてもらい成熟したと思う。
どんなに便利で豊かな社会に生きようとも、苦難や試練や挫折や喪失はなくならない。だったら、それも運命として引き受けて生きることだ。
人から良く思われたいとか、理解されたいとか、お金になるとか、地位が上がるとかに目もくれず真っすぐ前を見て天を仰いで生きる覚悟がいる。