『北御門二郎 魂の自由を求めて』「ぶな葉一著:銀の鈴社」より
トルストイの娘タチアナは悲しみに悩むたびに立ち止まって、生きる意味を求めたという。そんな時に、父トルストイに次のように諭されたという。
「深い悲しみも、内面の葛藤も無駄ではない。それがお前を高めてくれるからだ。それによってお前は、今日お前を悩ませているものの上に舞い上がるのだから」と。タチアナにとりこの言葉は、生涯、心のよりどころになったという。
トルストイの魂の遍歴について、北三門二郎さんは読書会で次のように述べたという。
「トルストイは生涯かけて、人は何のために生きるのか、真の幸福とは何か、を追求した人です。でもこのトルストイの真剣さを笑う人もいるかもしれません。例えば、そんなことをいくら考えたって答えがでるとは思えない。そんなに人生を難しく考えないで、もっとおもしろおかしく過ごせばいいのにと。だが人間はそのようにだけは生きられないのです。遅かれ早かれ避けることのできない病や死がやってきます。親しい者たちの死にもあわなければなりません。トルストイは早くに父母の死にあい、そして兄の死、我が子の死、ことに末っ子のヴァーニャの死はトルストイ夫妻を打ちのめしました。トルストイは打ちのめされながらも、ますます真に意味のある人生とは何かを求めたのでした。」
死を見つめて生きることは、本当に値打ちのあるものは何だろうかを気付かせてくれる。値打ちのないものにあくせくして、捨てていくものはぎ取られていくものを集めているのではなかろうかと省みるのである。が、頭では理解しても実践できないのだ。繰り返し自問自答する中で少しは実践できるかもしれない。