日本医療評価機構 認定第 JC1979号
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『六祖壇経』
 達磨大師から数えて六番目の祖師である、
恵能大師が法を説いた書である六祖壇経を読
んでいる。
 ほとんど、いや、まったく分からないが、
私の心に刺った文言を記したい。

 諸君、精神の不動を目ざして修行するには、
すべての人に対して、その善し悪しや善悪の
あやまちを見ないこと、これが自己の本性で
あることなのだ。
 諸君、本性を見失った人は、身体は不動で
も、口を開けばすぐに他人の善し悪しや、長
所短所、好き嫌いを説いて、道にはずれてし
まう。もし心に執着し、清浄なものに執着す
れば、逆に道をふさぐことになるのである。
     坐禅の教え その一より

 寺を造営し、僧を供養し、施しをし、おとぎ
をするのは、それは福を求めての営というも
のであって、福徳がそのまま功徳であると考
えてはならぬ。功徳はわが法身の中にこそあ
れ、福徳を営むことの中にはない。
 師はまた申された。「自己の本性を悟るこ
とこそ功であり、すべてをひとしく見てゆけ
るのが徳である。
 外に対しては折り目正しくあるのが功であ
り、内にあってはおのれを謙抑するのが徳で
ある。
 もし功徳を身につけた人なら、心に人を軽
んずる心をもち、自我の思いがふっ切れぬな
ら、もともと功徳はない。
     問答功徳より

 よこしまな思いが出てくれば煩悩が生じ、
正しい心が出てくれば煩悩はなくなる。
 まことの道を知ろうとならば、正しい行が
そのまま道
 おのれに求道の心がなければ、暗い夜道に
道が見えぬと同じこと。
 まことの修行者というものは、世の人の過
ちには目を向けぬ。
 もし人のとがに目を向けるなら、そのおのが
咎こそ道にもとるもの。
 人の咎は私は謗らぬ。おのれの咎がもとも
と悪い。
 その咎ある心を自ら払い去り、煩悩をば打
ちくだくだけのこと。
 仏の教えは俗世の中にある。俗世を離れて
悟るのではない。
     在家の仏教より
 以上は、たちばな出版による中川孝さんの
訳による。

 自分のことはタナにあげて、人の悪口、欠
点のみあげつらう。
 自分にとって都合のいい人は善人、都合の
悪い人は悪人。
 自分の眼に大きな木がはいっているのに、
他人の眼の中の小さなおがくずは探し出す。
 感謝の念は、みじんもない。
 口から出る言葉は、善き人であり、口善人。
 立派な人の本はたくさん読んではいるが、
知識だけであり行がともわない。
 これが私である。